本名「富永一」「修侃(シュウカン)はペンネーム」
著書




マッカーサーの農地解放令(地主から土地を取り上げ小作人に渡す法律)
により没落、進学不能となる。

昭和18年母が陸軍師団司令部の、タイピストであったことから
福岡県久留米市の陸軍病院生まれ。父の里長崎県佐世保市育ち。父は医師。


幼少より、ゆどう術の手ほどきを祖父今村喜太郎先生より受ける。
中学二年生でアマチュア無線技士取得。後自衛隊無線機等修理に従事

上京し新宿の家庭電気店東中野店長から三菱電機で旧丸ビル勤務。
その後電気店で独立したが過労で、自身めまいを発病し、

今村喜太郎先生「癒導術」で全快(めざせ自律神経活性療法師)に詳解。

国家資格取得後、海釣りが趣味で、海に近い横浜へ移住。

日本癒導医学研究所を主宰し「ゆどう術施療所」を始める。
定年まで「少年補導員」を務める。

著書12冊は、原稿修正されるのを嫌い出版社からでなく
全て日本癒導医学研究所から自費出版。

「糖尿」で訪問施療先のパン工場会長夫人から
次男が回復したことで出版を勧められ、「パクパク食べて糖尿病の治療」を出版。

新聞広告担当の「0氏」がメニエールで4カ月入院休業した際
ゆどう術で回復したO氏の勧めで
「めまい・吐き気・不眠(メニエール)の治療」を発行。

以前施療所の千代田ビル解体により、
現在の仮時事務所でゆどう術施療を実施中



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富永修侃しゅうかん 紹介 書籍より
著書「めざせ自律神経活性療法師」より

15頁
第二章自律神経活性療法は講道館柔道からスタート

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自然治癒力を引きだす施療
自律神経の機能低下は内臓(脳も含む) の働きを低下させ、ひい
ては病原菌にも侵されやすい体質へと変化させていきます。自律神

経活性療法はこうした機能の低下した自律神経を目覚めさせ、体の
潔化作さ用を盛んにして抵抗力を高め、
自己治癒力を引き出してい
きます。

実は、私たちが薬で治していると思っている病気のほとんどは、
自己治癒力によって治しているのであり、
薬は自己治癒力を高める
作用をしているのです。

それを証明するのは、免疫力を高めれば治る病気なら、細菌性の
病気でも薬を使わずに治すことができます。例えば水虫、慢性の
虫垂炎、膣炎、膀胱炎、ヘルペス、扁桃腺炎、皮膚病の一

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部などには大変効果があります。
こうした療法を開発した自律神経活性療法の歴史は、明治時代ま
でさかのぼることができます。故今村喜太郎先生(慶応義塾卒・講

道館柔道五段)が、自身および弟子や知人などの病気予防・治療o
健康増進のために施していたものが自律神経活性療法なのです。
この今村先生は私の母方の祖父に当たります。祖父に″先生〃と

は奇異に思われるかもしれませんが、それだけ人間的にも技術的に
も私に多大な影響を及ぼした人で、
感謝の念を現してそう呼んでい
ます。

ともあれ、明治時代の病気治療といえば、祈祷、温泉、按摩、指
圧、鍼灸、漢方薬といったものが中心でしたが、そのなかにあって、
自律神経活性療法は飛びぬけて画期的な施療だったといえます。

なぜなら、この時期、明治政府によってようやく西欧文化、科学、技

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術、医学などが導入されて病気の理解も深まり、急速な進展をみせ
始めたのですが、それをいち早く取り入れたのが
自律神経活性療法
だったのです。

鎖国の長い眠りから覚めた日本では、明治の元勲や高官たちが先
を争って西欧文明を導入しようと視察に出かけました。その一行に
随員として同行することになった今村先生は、いち早く科学的な病

気の理解、合理的な物の見方、考え方、治療方法を学んで帰国しま
した。習得した治療方法は柔道場と整骨院(福岡県久留米市西町一、
二四七) の開設で、患者の施療と弟子の養成に役立てられることに

なったのです。
後年、関東大震災を経験して先生はさらに人体の生理や病気の理
論、心理学、衛生栄養学といった総合的な研究に成果をあげ、これ
らに基づく独自の施技を完成させていきます。これが自律神経活性

19頁
療法です。しかし、今村先生の技術の恩恵を受けることができたの
は、東京から居を移した久留米市の先生の柔道場「神武館」にかか
わりのある人たちに限られていました。

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関東大震災が癒導術を完成させた

自律神経活性療法を完成させていくきっかけとなったのが大正十
二(一九二三)年の関東大震災でした。死者および行方不明十三万
人余、焼失家屋四十万戸余といわれる歴史に残る大災害です。

このとき今村先生は品川の柔道場、診療所、さらには自宅も失い
ましたが、けが、骨折、精神混乱とみられる人々であふれる地獄絵
図のような街中で、無料で献身的な施療を行いました。

こうした施療症例が一挙に自律神経活性療法を完成に導くことに
なりました。というのは関東大震災では、けが、骨折、病原菌によ

20頁
る病気や伝染病の他にも、地震や火災、伴侶や子どもの死、恐怖、
過労からくる人間関係の不調が自律神経に多大な影響を与え、それ
が病気の原因となることを明確に観察記録し、論理的に裏づけたか

らです。
そのとき今村先生の観察記録には、「自律神経機能低下症はスト
レス、過労が引き金となって発症し、初期にはめまい、こり、しび
れ、あるいは不快な気分に陥ったり、記憶することが困難になった

り、吐き気などの症状を現す」とはっきり記されています。
さらに症状が進むとイライラしたり、極端に音をうるがったり、
攻撃的な話し方をしたり、潔癖症になったり、歩行困難や外出不能

などを生じるとしています(この段階が神経症です)。
こうした状態を過ぎると、心身症や″心の病″といった精神障害
を起こし、登校拒否、出勤不能、対人恐怖、不感症、冷感症、勃起

21頁
不全といった症状が現れてくること、さらに夜を怖がったり、対人
関係に異常なほど緊張したり、人が悪口をいっている、人がつけて
くるようで不安でたまらないといった妄想症状が現れてきます。各

症状がひどくなってくるとてんかん症状、自閉症、被害妄想、分裂
症といった特定の病名がつく重い症状になってくるのです。
関東大震災の当初は重傷患者の接骨等の施術に忙殺され、軽度の

こり、痛み、まひといった症状の人は施術を行うことはできません
でしたが、その後の追跡記録で、「このとき受けた自律神経機能低
下症が原因で生涯にわたって神経、精神障害を誘発することもある

ことが判明した」と、その詳細を記しています。
また、骨折で治療を受けて良くなった人たちが、その後も人生相
談などの悩みを打ち明けに接骨院を訪れ、身内の他界や仕事が見つ

からないといった気落ちから下痢、歩行障害などを起こし、それが

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悪化すると難聴、失明、失語といった重大な障害にまで発展するこ
ともわかりました。
このように、生死にかかわる状態ではなくても、ストレス、過労

が重大な障害をもたらし、後々まで人々を苦しめることが追跡記録
によって明らかになっていったのです。

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体験的に学んだ西洋医学

化膿、損傷といった目に見える症状から発生してくる機能的障害
(器質的障害) はわかりやすいものですが、外見上は体調に何の変
化もないのに、体の働きそのものが悪い機能的障害は、臓器を働か

せる神経の障害から生じるためにわかりにくい面があります。そう
したわかりにくい症状に対して、ていねいに追跡記録した先生の熱
意には頭が下がります。

23頁
当時は薬による治療にしても、当然のことながら限界がありまし
た。そのうえ、ストレスからくる自律神経の乱れがこり、痛み、し
びれ、まひといった症状を発生させ、二次的に病原体に侵されやす

い体質へと変化させ、それが生命をも危うくする病気にかかりやす
くすることまで時間をかけて記録したのです。こうした事実は当時
の医学では解明されておらず、このとき初めて体験的に知りえたこ

とでした。
今村先生はその後、患者さんに生活指導を行ったのですが、まだ
まだこうした病気に知識と理解のなかった時代です。精神障害者に
は死んだ人や身内の霊魂がとりついたのだと信じ、祈とうやまじな

い、お払いが大流行したといいます。「専門家の懇切丁寧な指導が
必要で、手間と時間のかかる病気であることを痛感した」と記録に
あります。

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24頁
ともあれ、関東大震災が契機となって、自律神経を刺激して機能
を高めることによって全身を支配している臓器(脳) の働きを活性
化し、治癒へと導く自律神経活性療法(癒導)を完成し、命名した

のは今村先生の力です。それが先生の長男の國雄叔父に引き継がれ、
私へとバトンタッチされ今日にいたったのです。
自律神経活性療法(癒導) のような大正時代の西洋医学は古いと

思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、手指は十本、
日は二つと、私たちの体は何千年と変化していません。これから新
たな病原菌による病気が発見されることはあっても、病原菌以外の

慢性的な病気は、体の構造に違いがない以上、本質はまったく変わ
らないのです。最近では阪神大震災でPTSDが注目されました。
PTSDという言葉は新しくなりましたが、その実態は何も変わっ

ていないことは明らかです。

25頁
第三章自律神経活性療法と富永修侃の履歴書

26頁
じいさんの手は″魔法の手″
私は子どものころ、学校が休みになるといつも母方(次女・喜代
子) の実家である福岡県久留米市西町脚番地の「今村接骨院」とい

う看板を掲げたじいさん(今村喜太郎先生) の所で過ごすのが常で
した。興味津々で施術室を覗いたり、整然と本が並べられた大きな
物置でとりとめもなくページをめくって遊んだことを覚えています。

この今村接骨院には二十歳くらいまで出入りした思い出深い場所で
す(先生は昭和三十八年没)。
私が物心ついたころのじいさんは講道館柔道五段、北辰流後継者
八段の有資格者でした。柔道大会があると私はじいさんに手を引か
れてよく会場に連れて行かれたのもです。そんなとき、私は審判員

席に座らせられ、周囲の立派な髭の老人たちに声をかけられて返事

27頁
に困ったり、面映ゆいような思いでじいさんを眺めていたことを覚
えています。
会場の雛壇の下ではじいさんが赤と自の審判旗を左右の手に持ち、

選手の激しい動きどともに右に左に動き回り、寝業では選手を覗き
込んだかと思うと片方の旗がサッと上がり、ヨ本、それまで」と
普段は聞かないような鋭い声をあげるのを、「すごい!」と思って

見ていたものでした。
当時のじいさんは毎晩、晩酌しながらその日一日あったことをぐ
たぐたと独り言をいうのが常でした。そんなとき、私は近くで居眠
りしたり、空あくびをしたり、狸寝入りをしながらその独り言を

聞くともなく聞いていました。じいさんは時間に厳格な人で、八時
半には喜多流の謡曲をうなり、九時には寝床へ入ってしまうのです。
「今村接骨院」に通ってくる人の中には、気のふれている人もい

28頁
ました。今で言う失調症や″心の病″といった人たちでしょう。
接骨院の看板には「骨接ぎ」と書いてあるのに、何でそういう人
が来たり、その人たちが元気になっていくのか不思議に思ったこと

を覚えています。
接骨院のある久留米市はプリヂストンタイヤ発祥の地で、会社の
役員といった人も頻繁に顔をみせていました。そんなとき、お土産
に持って来てくれるのは、タイヤの見本の灰皿が多かったものです。

また、じいさんの長女の一房江叔母が日赤病院の婦長だったこともあっ
て、ァメリカの軍人さんも顔を見せ、クリスマスカードなど
をもらっ
たこともあります。

こうした人たちが集まる施術室では施術とは名ばかりで柔道の話
に夢中という人もいました。また、「今村接骨院」は早く治してく
れるという評判から久留米の競輪の選手、柔道選手など、スポーツ


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選手もたくさん施術を受けに来ていました。
なかには初回で「痛い痛い」とうめいていた人が、施術室でじい
さんが「ほうら、ちょっとチクッとするよ」という声とともに患部

を回したり引いたりしたとたん、「アッ」と一声発し、痛みが去っ
てケラケラ笑い出す人がいたり、「イヤー、楽になりました」とびっ
くりする人がいたりで、施術室は毎日がのどかで、にぎやかなもの

でした。
そんな風景を行く度に覗き見していた私には、じいさんの手は不
思議だなと思ったり、魔法の手だなと思ったりしたものです。

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今村喜太郎先生と叔父叔母の宝の発見

先生が亡くなった後、今村接骨院は國雄叔父が相続し、國雄叔父
が亡くなった後二房江叔母が相続しました。その一房江叔母の葬儀の

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ことはよく覚えています。ちょうどその家が都市計画道路予定地で、
取り壊される寸前のことでした。最後の思い出にと、小さかった
従兄弟たちと西町の昔の家に行ってみたのです。

取り壊しを前に家財道具を近所の人たちに譲った家はがらんとし
ていました。「今村接骨院」を継いで叔父、叔母が働いていた施術
室も片付けられていて、そこにポツンと懐かしい今村先生の椅子が
ありました。
そのとき、 ″宝探し″称して小さいころ近所の友達と遊び場に
していた物置小屋も覗いてみました。そこにはたくさんの古本が山
積みになっていました。そのなかに大妻コダカ著『家庭全科』を発

見しました。私が幼いころ、叔父叔母たちの医学、栄養、衛生など
の知識は豊かで、話の内容はわからないまでも「よく知っているな」
と感心し、不思議に思っていました。そのとき、多分、その知識の

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源泉がこの本にあるのだろうとひらめいたのです。
葬儀の後、自宅に持ち帰って読んでみると、なるほど、基本的な
知識の根幹はこの本であると気がつきました“読んでいるうちに私

に話してくれた先生や叔父叔母の話の数々がよみがえってくるよう
で、それは懐かしいものでした。
こうして幼いころから自律神経活性療法の入回は垣間見ていたも

のの、それが後々の私の人生そのものと重なることなど、このとき
は想像もしませんでした。

人生の師″を求めて東京ヘ

私は昭和十八年、久留米の陸軍病院で生まれ、終戦と同時に長崎
県佐世保市(現在のハウステンボス近く) の早岐に移り住みました。
父の実家は『忠臣蔵』でお馴染みの兵庫県赤穂近くの「富永」とい

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う地から発した地方豪族らしく、終戦までは家から見える山という
山、田畑という田畑を所有していました。しかし、GHQによる農
地改革でそのほどんどを失い、家の周りの少しの田畑と、いくつか

の山々が残されました。父はそこにある三百年を経た古い家を相続
したのですが、建て替えたくてもこの家から嫁いだり分家した人た
ちの心の拠り所となっていて、そう簡単にはいきません。代が変わ

るまで待機しようということになっているようです。
父は早岐で農業と無償で医療をやり、私に継がせようと強制して
いまいしたが、私としては志を変えられず高校を卒業すると同時に

家を出ました。 一年間久留米園芸試験場にいた後、北海道に渡り自
衛隊で戦車積載の無線機修理に従事しました。そこで二年間ほど過
ごすと、 ″人生の師″を求めて東京へと出てきたのです。
二十一歳
のころです。
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